2022年10月4日忘れもしない。尊敬していた先輩が亡くなった。
自分の取り留めのない気持ちだったり、思い出を体裁とか関係なく、書き綴りたいと思う。
少しだけショッキングな話もあるかもしれません。
人によっては色んな気持ちが揺り起こされる方もおられると思うので、無理して読まないようにしてくださいね。
当日の話
世間はまだまだコロナ禍。
本職がシステムエンジニアである僕は、自身の精神的な不調と戦いながら働いていた。
その一環で自宅でリモートワークを続ける日々。
先輩とはなかなか会えず、チャットやたまの電話で会話するのみ。
丸一日連絡しないこともざらにあった。そんな日々が一年以上続いていた。
いつも通り重い腰を上げ、自宅のパソコンを立ち上げ、専用のソフトで会社のパソコンに接続する。
いつトラブルが起こるかもわからない日々に気持ちが落ち着くことはなく、トラブルに備え出来ることをしていく毎日。
この日もそんな普段通りの一日になると信じて疑わない僕だった。
記憶は曖昧だけれど、多分午前10時くらいだったと思う。
携帯に着信が入り、珍しいなと思い、携帯に目を向ける。
〇〇警察署――
財布を落としたり、自宅で息子の自転車が盗まれたりと、何度か警察署から電話が来たことのある僕は、電話に出るまでの短い間、何か落としたっけ、それとも、過去の盗難の犯人が捕まったのかな、とか色々考えたのは何となく覚えている。
短い時間では思い当たる節があるわけもなく、とりあえず電話に出ることにする。
思い当たることがないので、自然と怪訝な声で応対してしまう。
今思えばとても素っ気ない感じで電話に出たと思う。平日は特に仕事のストレスと戦っていたので、余計にその感情が出てしまったかもしれない。
「〇〇警察の者ですが、〇〇さんの携帯で間違いありませんでしょうか」
こんな感じな会話だったと思う。
名前も知ってるんだな。じゃあ何の件だろう?余計に不信感が増す。
「〇〇さんはご存じですよね」
先輩の名前だった。
この瞬間の僕は本当に楽観的で、先輩またお酒飲んで道端で寝ちゃったのかなとか、そんなあり得ないことを考えてたと思う。
それなら僕に警察から連絡が来るはずもないのに。
「〇〇さんが今朝、亡くなっているのが発見されたんですが――」
ここから先の警察の方とのやり取りは、あまりよく覚えていない。
警察の方の言っている意味がわからず、しばらく会話にならなくて、「〇〇さん、聞こえてますか」と何度も確認されたのは覚えている。
自室はあまり電波がよくないのもあったと思う。
警察の方が折り返すとのことで一旦電話を切ると、思考が停止したまま、リビングにいる妻のもとへ向かった。
妻にどうやって伝えるかも、まとまらないまま。
突然リビングにやってきた僕に少し驚く妻。
どうしたの?と聞く妻に、要領を得ない僕。
妻も怪訝そうな顔で僕を見ていた。
言葉はうまく出ないのに、何故か目から涙が出始める。
言葉を絞りだす。
〇〇さんが亡くなった。
シンプルな言葉を。
そこから頭がその事実を認識し始めたのか、涙があふれ出した。
驚く妻に、電話に警察署からの折り返しの電話。
止まらない涙。
日常が壊れた気がした。
何故亡くなったのかはこの時はあまりわからなかった。
ただ、警察の方から、先輩が最近悩んでいたことはなかったか、些細なことでも思い当たることがなかったかなどをしきりに聞いてくる。
そういうことなのかな、と思った。
警察の方曰く、会社の上司に連絡をしたそうで。
その上司が、先輩が親しかった人物を数名挙げたところに、僕の名前も挙がり、電話を掛けてきてくれたとのこと。
その時は気持ちの余裕がなかったけれど、今思えばありがたかった。
だって、先輩が亡くなったことを人づてではなく、ある程度直接知ることができたのだから。
電話を切ったあとも僕は涙が止まらず、そんな僕の手を妻はしばらく握ってくれていた。
家族ぐるみというと大袈裟だけれど、先輩と妻にも面識はあり、何度か会話もしたことがあったので、妻もひどく驚いていたと思う。
警察の方も状況の把握に努めている最中で、あまり話せる情報は少ないようだった。
多分、聞いても答えられることと答えられないことがあったとは思うんだけれど。
結局、先輩が亡くなったことしかわからない状況で、僕はこの日、泣くことしかできなかった。
もしかしたら葬儀やお通夜の連絡があるかもしれないと、妻や義理のお母さんもサポートしてくれて、色々と準備はしたけれど、結局この日にはそれ以上の連絡はなかった。
涙が止まっては溢れ、止まっては溢れの繰り返しで、この日から2週間くらいはずっと泣いていた気がする。
情けないけれど。
思い出
僕は大学卒業後、右も左もわからない状態で社会人になった。
約1ヶ月くらい、会社の新人研修を受けて、会社から出向先へ案内してもらう時に出会ったのが先輩だった。
年は4つほど上だったかな。
僕の会社には、入社1年目には必ず教育係という形で、先輩がフォローしてくれる制度があって、その教育係が先輩だった。
僕の大学の専攻と、会社の業務内容は結構な違いがあったから、まさしく右も左もわからない状態。
そんな僕に忙しい中、丁寧に仕事を教えてくれた。
最初の1週間くらいでわかったのは、先輩はとても忙しかった。
出会ったことは僕と同じ一般社員だったけれど、それでも、周りの人以上の期待と、仕事量を任されていた。
あまり不平不満を顔に出さず、淡々とこなしてしまうことから、『サイボーグ』的なことを言われていた。
あとは『隊長』とも言われていたかな。周りからの期待や負担を一身に背負っていたのだろうと思う。
このことを聞いていた先輩は、どう思っていたんだろうな。
つまりは、先輩はタフで体力もあって仕事ができて、どんなに忙しくても顔に出さない。
僕も含めて、職場の皆からの先輩へのイメージはそんな形で定着して、少しずつ先輩への負担が増えていったのだと思う。
歓迎会だったり、お昼ご飯に誘ってくれたり、飲みに誘ってくれたりするうちに先輩のことを知る機会も増えた。
先輩は苦労人で、年齢は4つほど上だったけれど、入社は2年前くらい。専門学校を自力でバイトなどをして卒業後、この会社に入社していた。
『サイボーグ』だのなんだの言われているけれど、当然中身は『人間』だった。
悩みもするし、疲れもする。普通の人間。
それでも周りにそれを悟られないようにする、強い人間だと思った。
僕はこういう存在になりたいと思った。
でも、次第に一緒に仕事をするうちに、こういう存在になれないかもとも思った。
僕にはここまでの強さを持てるだろうか、と。
先輩の仕事に対する負荷は、新入社員の僕でも充分にわかったから、少しずつ先輩のためになるようにと思って仕事を覚えつつ、先輩の仕事を肩代わりできるように頑張ろうと思った。
新入社員としての1年目が終わり、そこから上司の意向で別の出向先へ行くこととなった。
ほどなくしてわかったのは、現場の実態と問題点だった。
こうやって、先輩の負荷を減らそうと仕事を覚えても、その人間が現場の意向とは別のところで、現場に定着していかない。
せっかく仕事を覚えた後任者が、定着せず別の現場に行ってしまうのだから。
先輩としても辛かったと思う。せっかく教えたのに。意味がないと。
僕もそれに気付いたのは少し後だったから、物申すこともできず、されるがままだった。
数年後、先輩の職場へ戻された。
それなりに経験を積んだ僕は、それなりに別の責任のある仕事を任されることになる。
先輩のフォローからはまた遠のく。
それからはずっと先輩の職場で仕事をしていたけれど、どんどん僕と先輩の道は遠のいていき、僕は僕で責任のある仕事だったり、無理難題だったり、色んなことを抱えていくことになる。
先輩と比べるのはおこがましいけれど。
先輩とは色んな思い出がある。
共通の趣味はカラオケだったから、飲みに行った〆はほとんどカラオケだった。
お肉が好きなのも同じだった。新しい焼肉屋さんを発見する度、先輩と話してキャッキャしてた。
息抜きにと、仕事中よくスタバにも連れていってくれた。期間限定のフラペチーノが出る度、先輩が誘ってくれて一息入れていたな。
プライベートでかなりゴタゴタがあったとき、夜先輩に電話したこともあった。あの時は本当に迷惑掛けたな。
先輩が女性とご飯を食べに行くからと、そのお店に下見に付き合ったこともあったな。
プライベートな繋がりで色々遊びにも行った。桃狩りとかもした。
僕が家を買ったとき、大きな本棚を買ったはいいけどサイズを間違えてうまく取り付けられなかった。そのことを先輩に相談したら、工事などのお仕事をしていたお父さんに話を通してくれて、お父さんが施工をしてくれたりもした。
最初の方は、僕もそんなにストレスは溜めていなかったから、一緒に飲みに行くのでも、愚痴はお互い言い合っていた感じだった。
だから潰れるのも半々って感じで、先輩が潰れることもあれば、僕が潰れることもあった。
僕はトイレでよく寝ちゃうけど、先輩は道端で寝た。
なのに、段々と僕が潰れる比重が増えてきた。
思えば、段々と先輩の愚痴を聞く頻度が減っていたような気がする。
本当に今更、気付くのが遅かった。
僕のことを色々心配して、聞き役に徹してくれていたんだと思う。
その間先輩は自分の中に色んなものを溜め込んでいたことを、先輩が亡くなるまで気付けなかった。
僕は出身が九州で、就職で単身大阪へ来た身だったから、社会人としてもそうだったけど、大阪の地に住むのも始めてで右も左もわからない。そんな中出会った、年が近い先輩。
先輩は仕事上の先輩であり、上司でもあったけど、友達感覚で話ができる良い先輩だった。
もっと、仲良くなりたかった。もった笑いたかったし、他愛ない会話もしたかった。
でも、途中から少しずつ道は分かれていって、段々と笑いながら話す機会も減っていって、気付いたら先輩はいなくなってしまった。
そのことは、後悔してもしきれない。
それからのこと
先輩が亡くなった報せがあったあと、信じられない気持ちでいっぱいで、しばらく何もできなかった。
でも時間は待ってくれなくて、それでも職場は何も変わらない、止まらない。
先輩のことを考える余裕も与えてはくれない。
どうしようもない僕は、その気持ちをどこに持っていったらいいかわからず、先輩のラインにメッセージを入れた。
数日後、それに先輩のご家族が気付いてくれて、お通夜やお葬式には参列できなかったものの、先輩に会うことができた。
その時に、先輩のことを色々聞くことができた。
ここでは書けないようなショッキングなことも聞いた。でも、聞くことができて良かった。
話を聞いているとき、僕はずっと泣いていて、今では先輩の家族の方が泣きたかっただろうなと思うけれど、そんな僕をご家族は暖かく歓迎してくれた。
もうあれから一年が経とうとしている。
失ってから気付くことが沢山あった。
今でも先輩を思い出さない日はないし、後悔の念は消えてはくれない。
でも、少しずつ『先輩が亡くなったことを理由』に前に進めないのは、ダメだよな。
それは、先輩に申し訳ないよなっていう気持ちを抱くようになってきた。
それが、少しずつ『時間が解決する』ってことなんだろうか、と思う。
twitterでタイムラインを眺めているときに、ふと目にした宇多田ヒカルさんのツイートです。
僕は遺族ではないし、それに近いくらい悲しみを背負っているとは、先輩の家族の気持ちを思うと言えないけれど、それでもつらくて、後悔を手放せないでいる。
あの時ああしていれば、こうしていれば、止めることができたかもと考えてしまうけれど、きっと先輩に対してし続けることは多分不可能で、そういうことを考えてもあまり意味のないこと。
自分と向き合っていくしかないのだろうなと思う。
先輩の一周忌が近付く中で、秋川雅史さんの『千の風になって』という曲の歌詞を面と向かってしっかり読んでみる機会を作った。
そこに私はいないので、お墓の前で泣かないでください。
千の風になって大きな空を吹きわたっています。
後ろ向きに泣き続けるのではなく、天気の良い日に空を見上げ、先輩と、自分の心を通じて会話をするくらいは、許されるんじゃないかなって、そう思った。
最後に
思いのままに書きなぐった文章なので、とても読みづらい部分はあったと思いますが、もし最後まで読んでくださった人がいたら、ありがとうございました。
まだまだ先輩の所へは行けないけれど、それでも、いつか先輩と会えたときに、沢山のお土産話を持っていけるように、これからも生きていかなければならないなと思っています。
今も、新しい焼肉屋さんを見つけると、先輩ともう話ができないんだなとか、寂しい気持ちがどっと押し寄せてくることがあって、つらいときもありますが、そういうときは、晴れた日に大きな空に向かって、先輩に話をしようと思います。
また、似たような経験はなくとも、大切な方が亡くなった経験をお持ちの方はたくさんいらっしゃると思います。
その方の気持ちを、少し揺さぶってしまったのではないかと少し心配しています。ごめんなさい。
でも、僕は悲しむためにこの記事を書いたわけではなくて、思い出すように、懐かしむように、少しずつ、そんな気持ちを持てるように。
そういう気持ちでこの記事を書いていました。
途中、少し泣いてしまうこともありましたが、この記事を見てくださった方に何か感じるものが残っていたらいいなと思っています。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
yasuでした。